プリシラ

ドラァグクイーン(Drag Queen)という職がある。
ドラッグだと薬物と混同する人がいるため(俺とか)、ドラァグという表記にしている。
多くはMtFの方が、過剰なまでに女性らしさを演出でパフォーマンスを行う。
パフォーマンスの形態は様々で、踊りつきでの口パクからストリップまで、幅広く分かれるようだ。
共通するのはあくまで「女性」という性を遊ぶことにあるのだそうだ。
一緒にするのは失礼かもしれないが、最近「男の娘」もネット文化では定着した感があり、彼ら(彼女ら?)は共通して女性より女性らしい。
というか、男が望む女性像を強調している。意図的かはともかく。

男性らしさの喪失や草食系男子の増加、などと言うが、俺は別にそれらは全く構わないと思う。
乱暴な物言いをすると、現代日本においては、そうなっちまった方が楽な部分が多い。だから増えてるだけだ。
潜在的に「なりたい奴」の割合は昔から変わっておらず、素質があった者がその趣味を遊ぶことに、社会が寛容になった、というのが正しいのではないだろうか。
歌舞伎の女形はまさしくドラァグクイーンだろう。言うまでもなく、あれは男がやるから意味があるのだ。
当然地方にもよるが、日本人男性は基本的に情けない。いやむしろ、男が情けないのは日本人に限らない。
だから彼らが遊ぶことも反対しないし、むしろエンターテイメントとして高品位になれば世の中もっと楽しくなるね。
「女性らしさ」と「男らしさ」は対比ではなく、むしろ競合し切磋琢磨する概念だと思う。
彼らのような者が「女性らしさ」を磨くほどに「男らしさ」の価値も上がると言うものだ。

表題の映画は都会で活躍する3人のドラァグクイーンが、地方にボロいバスで公演に向かう、というロードムービーだ。
とにかくオーストラリアの広さを痛感する。
その広大で逞しい景色は美しく、そこを派手な衣装で闊歩する3人、ベルナデット、ミッチ、フェリシアがまた滑稽でかつ、優雅で、潔く、清らかだ。
重いテーマが各所に散りばめられている(地域格差、性差別、性的虐待、離婚、売春などなど)が、切れ味のいい台詞と脚本のテンポがそれを引きずらせない。
それがいいところでもあるが、邦画ならいちいち掘り下げて台無しにするところだ。

個人的に印象に残ったのはテレンス・スタンプ演じるベルナデット(また見事に貴婦人なんだ、これが)の台詞だ。
「さんざん都会が嫌だと言ってきたけれど、私達には都会しかないのよ」
誰かしら珍しい欲求を持っており、これはむしろ珍しいことではない。
しかし否定や攻撃を恐れ、多くの者は表に出さずにいる。
それは悪いことではないが、世にはそれすら選択できない者もいるだろう。
その者たちの誇り高い矜持と、一抹の寂しさを感じた。
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