便所の落書き

 8年前の丁度今頃、夏の終わり、新潟駅のトイレをよく利用していた。
 といっても別に用を足すわけじゃなく、通学に新潟駅で降りるわけだけど、その頃の俺は人酔いも激しく、まずはトイレに駆け込んで嫌な汗が引くまで落ち着いていた。
 北口向かって左側の階段の手前、男子トイレ一番手前の個室だ。
 あるとき右の壁を見ると、「連絡通路のホームレス多すぎ! くせえ! なんとかしろ!」と落書きがしてあった。
 今はもう一人もいないが、確かに当時結構な数のホームレスが、連絡通路に御座やらダンボールやら敷いて毎日宴会状態だった。近代的な駅の中で薄汚い男がだらけてるという様は、さながらチャイナタウンかアジアンサイバーパンクの様相で中々美しかったがね。
 次の日その落書きに線が伸びて、「確かに」「泉田仕事しろー」と返信がついていた。スレッドの立ち上がりだ。
 それから一週間ほど、毎日スレは緩やかに更新されていった。流れからはみ出た単発レスも多かった。やっぱりみんな字に少しずつ癖があって、匿名性の中にもほんのり「これとこれは同じ人が書いたのかな」なんて推測できるのが楽しかった。
 大概がサラリーマンらしき人の愚痴だったが、「落書きするんじゃねえよ」「オマエモナー」なんてやり取りも混ざっていて、ああ、ねらーって結構いるんだと初めて肌で感じた。
 それがあるとき、急に喧嘩腰になって荒れてきた。「そういうのどうかと思うよ」「なんだお前偉そうに」みたいな。
 俺はずっとそのときまでROM(Read only member、読むだけの人)専だったけど、そのとき初めてレスを付けてみた。
 「同じ便座暖めてる者同士仲良くしようよ」

 次の日。
 「まあね……」
 「そう言われるとなんだかなぁ」
 「(´・ω・`)便座ヌクモリティ」
 俺はその反応に満足して、またROM専に戻って楽しませていただこうと思った。
 でもその次の日、落書きは全て綺麗に消されていた。
 それから何度か落書きはあったものの、ときに1日は残っても2日目には必ず消えるほどに掃除が徹底されるようになった。スレストだ。FOX☆には抗えない。新潟駅トイレの2ちゃんは閉鎖した。
 今にして思えば、きっと掃除の人もいつでも消せたんじゃないかな。でもわざと残してたんだと思う。もしかして書き込んだりしてたかもしれない。

 俺も当時から2ちゃんはずっと見ていたけど、現実に便所の落書きを目にした者からすると、ネットは本当に、その全てのコンテンツが便所の落書きのようなものだなと思う。
 違いは匿名性があるかどうか。クローズドであるか、オープンであるか。それだけだ。
 だけど俺は思うのだ、自分の次に、あるいは前に同じ便座に座った者の顔なんて知りたくもないと。いやまぁ俺は座らなかったけど。そしてそのときにしか出ない言葉こそ本心ではないかと。
 その仄かな残滓だけを重ねて人とのつながりを認識する、それでいいじゃないか。
 新潟駅の連絡通路にホームレスは一人もいなくなった。でも彼ら全員が別に死んだわけではないし、きっとどこかで昼間から宴会しているし、そうであってほしい。
 あのときそこにいた。それで十分だよ。
 その記憶を胸に、俺は個室を出た。あれからもうその個室は使っていない。
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