憎しみは色々あるけれど

 このブログにせよ日頃の発言にせよ、「どうして僕はあんなことを……!」ということは山ほどあるわけですが、そんなことを考えていちいち発言を躊躇っていては救えるものも救えないのではないかとも思う。
 いつも誰かは勝手に苦しみ傷ついていくし、どれだけ此方が心を改めようと「こいつぶっ殺してやる!!!」「死ね!!!」と思わせてくれるドチンカスは絶えないわけだよ。そう何度でも! ゴキブリよりもしぶとい。
 それで思うのだけど、別にドチンカスが居なくても凄い人や優しい人の有難みはさすがに分かると思うんだよなぁ。
 まさに、生きる価値もないドチンカスどもに判決を……。

 まぁドチンカスは置いといて。
 僕はファン心理というものがどうやら理解できないらしい、ということが最近分かった。
 勿論僕にも熱狂するものや、さながら恋のように激しくその対象を味わいたいと思う知的好奇心はあるけれど、どうもそれは「ファン」とは違うらしい。
 というのも、まぁこういう活動をしていると時々特定のアーティストにお熱の人間に遭遇するのだが、まーこれが全く話が合わない。
 その対象を僕が知っている知らない以前に、宗教的レベルで何かを信奉する人間と、根本的に話が通じない。
 これは10:0で相手が悪いんだけど。
 僕が熱狂するとき、その対象に当然「○○であってほしい」「きっと××なんだろう」「△△も好きかもしれない」というようなことは考える。当然ね。
 ただ、それをあまりに安易に、そして危険なほど信じちゃうのがファンというもののようだ。
 この「信じる」という行為がやっかいで、別に信頼してるわけでも、理解しているわけでもない。だから、あれだけ崇拝していた対象をすぐ、「裏切られた」とか「落ちた」とかいう表現が出来るんだと思う。
 シンプルにまとめれば、恋に恋している状態だ。感情の矛先は対象ではなく自分なのだ。別にこの点は否定はしないけども。

 凄く冷たいことを言うと、「ファン」に知性は存在しないのだな、と思う。古今東西、未来永劫、多分そう。
 僕は何かを好きになるとき、同様に憎みもするのが自然な感情だと思う。
 憎むという感情、それは紐解けば「独占欲」「愛情」「親近感」、この三つの正三角なバランスが崩れた状態を言うのだ。
 独占欲は崩れれば嫉妬になり、愛情は崩れれば裏切りとなり、親近感は崩れれば孤独感となる。そうしたときに人は憎しみを抱く。
 何かを好きになるということは、そういった感情を負うリスクも付いてくるのだ。
 となれば、何も自分の持ち物やバックボーンを全部投げ出して「この人素敵!この人が全部正しい!」みたいにはならないはずだ。
 しかしファンはそれをしてしまう。だからそれに報いてもらえないとき過剰なダメージを負う。哀しい生き物だ。

 が、最後に逆説的に〆るが、そういったリスクを負ってでも好きでいたい、という感情は僕は凄く素敵だと思う。
 盲目的かもしれないが、「こんな売れ線に走るなんて、僕の好きな○○じゃないよ……でも好き」ああ、いいじゃないか。おおいに結構。誰だって人間なんだ、失敗もするし恥かいたりもする。うんこもするしゲロも吐く。
 そういうところも含めて好きになってこそ本当のファンですよ。
 ファンにも色々あるけれど、カッコいい○○に相応しい「カッコいいファン」、そういうの目指してもいいんじゃないですか。
 好きなことに詳しいのは大変宜しいけど、ウンチクおじさん、ウンチクおばさんになったらファンとしてオシマイだね!

 僕は美しい音楽の大、大、大ファンだよ!
 好きな理由なんか言葉に出来ないよ! だって好きなんだもん!
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