不良とイノセンス

 なんとなく不良に対する憧れみたいなものがある。
 不良といっても、怠け者とか、カツアゲするとか、喧嘩っ早い奴らでつるむとかそういう話ではない。
 ”ヤンキィという生き方”だ。
 学ランを与えられれば着崩し、大人にはとりあえず反抗し、酒と煙草と音楽を愛好し、バイクや車を崇拝し、くだらない勝ち負けに本気で熱くなり、「ヤベェヤベェ」とツレと騒ぐ、窓ガラスは割る。
 言うまでもなくこれらは、美化されたイメージだということは理解している。
 ドラマや漫画で語られるような話の裏では、ケチな盗みやチクり、小心者の騙し合い、弱者の馴れ合い、いやそもそも、悪事の被害者がいるわけ。
 これを踏まえて、僕はその美化された不良像に憧れがある。ヤンキィの文脈でなら、金がないことも夢になる。
 なんなら僕は、クソ真面目な人間よりも、多少DQNな人間の方が仲良くなれる。というか、そもそも、僕のルックスは悪い意味でかなりDQN寄りだ。なんというか、骨格が。

 この「良い不良」という存在だが、スーパーヒーローに憧れるのとなんら変わらないので、結構な人は分かってくれるだろう。
 今尚、どこにもいやしないこの「良い不良」、「義理堅いヤクザ」、「昼行灯」的な存在は日本人の心をくすぐり続ける。
 格闘技の話題で出てくるときの「骨法」とか!笑
 正しいか間違ってるかの問題じゃない、何故ならこれは浪漫の話だから。ロックってこと。

 この不良に憧れるという心理は、極めてイノセンスだと思う。
 イノセンス、それは英語、純情とか無垢とか翻訳されるが、どれも苦しい。「切ない」が英語に無いように、「イノセンス」は日本語にない感情だ。
 この文章を書くにあたって、最もヤンキィな生き方を描いた小説が着想になっているが、それ即ちJ・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だ。
 まずこのタイトルが秀逸というか、このタイトル、つかまえて……の続きに連想するイメージが、まさしくイノセンスという感情ではないかと思う。
 60年以上経った今も売れ続けるベストセラー、世界中に愛好家もいて、それに影響を受けた作品も星の数ほどあるので、今更内容について言及はしない。学校は早急にこれを国語のカリキュラムに織り込むべきだ。
 極端な話、僕はイノセンスを理解している人間以外とは話もしたくないし、同じ空気も吸いたくない。イノセンスを持たない人間は臭い、とにかく臭い、汚物や毒よりもずっと、とにかく酷い腐臭がする。
 村上春樹訳は読んだことはないが、読む前から分かる。クソだ。そびえ立つクソだ。タマ落としてる。ホールデンが微笑みデブに成り下がる。
 絶対絶対絶対、野崎孝のバージョンを読むべきだ。もはや人としての尊厳、の域なんだよ、この作品は。

 他にもイノセンスに触れた作品は多くあると思うが、中でも僕は、やはりレオス・カラックスの汚れた血(デヴィット・ボウイのモダン・ラブ、アレックスの疾走)を敬愛するな。
 ガラスの墓標のセルジュ・ゲンスブール、ミーン・ストリートのロバート・デ・ニーロ、ダウン・バイ・ローのトム・ウェイツ、バッファロー66’のヴィンセント・ギャロなんかも素晴らしいイノセンスだ。
 フランス文学はオシャレとロマンスで巧妙に隠されてるが、その影と下地にイノセンスを多分に含んでることが多い。彼らのキスは文学なんだ、性欲でも暴力でもない。
 彼らの作品は総じて乱暴だ、無軌道で自堕落で、ヤンキィそのもの。何故そうまで破滅的でなければ、イノセンスは浮かび上がらないのか?
 それはイノセンスが命の炎だからだ。人が死を望む、生にしがみつく、性に溺れる、詩に焦がれる、そのとき根底に眠っていたイノセンスが暴れる。線香花火だ。今にも千切れそうな夜の綱渡り、バチバチに星を放って君は墜落する、曲乗りの僕はそれを見上げて手を振る。流星は涙になってプールに落ち、その波紋の先で白鳥は飛び立つ、水の中で僕と君は窒息しながら、ようやく一つになれる。
 そんな感じ。
 それを忘れたとき、音楽は鳴り止むんだ。

 目が覚めたら僕は消えてしまう。僕は君の夢だから。
 どうか覚めないで欲しい。冷めた現実の手に鎖骨を触られながら、まどろっこしさに目を擦り、煙草をくゆらせ、愛しい人の寝言を聞き、深い眠りに堕ちてしまおう。
 クローゼットの扉が開いたら、グッド・バイ。夜また会おうね。
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