07
2016

世界で最も価値の無い人間

CATEGORY
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 人間的に価値が有るとは、果たしてどういうことでしょうか?
 それは私には分かりませんが、自らには価値が無いというその一点に於いて、あまりに確信的です。
 その理由も確かではありません。さして重要ではない気すらします。

 私には手足があり、五感があり、言葉や文字や図形が分かり、それなりの法則や社会性、整合性も理解できるつもりです。
 私自身の主義主張に多少の偏りはあっても、およそ大半の人間の中での正解、集合知のようなものも、漠然と判別がつきます。
 つまり肉体的に健全でまた、精神的にも人並みに不自由しない、一通りのインターフェースを備えています。
 また、私のいるこの国の法律や社会的身分は、私をそのように定義しています。
 私以外の客観的なモノの目方が、私を常人と見做しているということです。

 そのことになんら不満はありません。むしろ有意義にすら感じています。対象は人によって違えど、私は感謝すべきでしょう。
 ですがその一つとして、絶対的に私の価値を保証するものではないのです。
 むしろ私の、「私には価値が無い」という一種の空虚感に、より一層の切迫感をもたらします。

 冒頭で世界で最も価値が無い人間、と書きました。
 なぜ世界が引き合いになるのでしょう。
 他者と比べて自分が健全であることに、優越感を覚えることはありません。
 むしろ、例え社会的にどんなに身分の低い者、貧しい者を見ても、「私」に無いものを所有している裕福な存在であると痛感します。
 付け加えるのであれば、私に価値が無いことは、人間という枠組みではなく、此の世に存在する物質全ての中で、という意味になるでしょう。

 先ほど述べた私の持つ能力や機能は、私の身体が生まれつき備えているものです。
 それはこの世界の一部で構成されたもので、厳密に言えば私の身体ではなく、たまたま私の管理下にある物質です。
 つまり私の身体には価値が有る、と言ってもいいでしょう。
 ですが私の管理下にあることで、その価値は損なわれてしまいます。
 それは、価値が無いのはこの「私」という「私」です。
 このことは私をあらゆる点で深く傷つけます。
 私の身体になんら罪はなく、偶然「私」を搭載してしまったばかりに、価値が無い存在の隷属と化していることに深い悲しみすら覚えます。
 仮に私が私の価値の無さに耐え切れずあらゆる暴挙に出た際、損失を受けるのは実際のところ「私」ではなく私の身体です。

 いつ、価値が無いと自覚したか。
 古い記憶になります。
 私は恋をしました。
 無様なことに、私はその瞬間に、この恋は叶わないと自覚しました。
 そしてこの恋を酷く醜いものとして、自分の中で閉じ込めることにしました。
 この行為は私を歪めました。
 しかし歪んだこと自体と、私の価値に相関はありません。
 私が持って生まれた特性のようなものを、その瞬間に理解してしまいました。
 「私は欠落している」という感覚です。恋はただの切っ掛けです。
 欠落した感覚を持っている、というのもおかしな話ですが、そう表現せざるを得ません。
 空虚が有る、水が裂ける、空が落ちる、そういった類です。

 この感覚を喩えることは、あえてしません。
 私以外にもこの感覚を持っている人は何人か知っています。
 その人たちには言わずとも分かり、そして、分からない人にはいかなる手段を用いても分からないことだからです。
 分からない彼らは、欠落した感覚を持たないが故に、本来ならそこに収まるべきものを持っているのでしょう。
 私には彼らが、あまり人間的に見えません。
 ですが、人間という枠組みでは彼らの方が圧倒的に多数で、体力があり、そして社会的に力を有していることが多いように思います。
 ニーチェで言う「あまりに人間的な」要素は、もしかすると私のような欠落した人間を指すのかもしれません。
 しかしそれもまた、何の慰めにもなりません。
 私は「あまりに人間的」であるが故に人間という種に敗北し、自分を無価値だと断じているからです。

 同種の人間についても同様です。
 最初は共通の感覚を持った者同士、この欠落を埋める方法があるのではないかと干渉しました。
 会話をしました。議論をしました。創作をしました。貸与しました。贈与しました。喧嘩をしました。利用しました。裏切りました。
 結論を述べると、それは全て徒労に終わりました。
 何故か、されたことに関しては記憶に薄いです。
 此の世でその方法を発見した人間は、誰もいないのではないかと諦観しています。
 残ったものは常に、裏切られたという感覚のみです。
 これは容易に説明がつきます。単に私が排他的だからでしょう。
 この、排他的である、という私の性質は、私の価値の無益さを大いに増進していると感じます。

 私は私以外に価値を見出すことが、極めて不得意なのです。
 独善的でも博愛的でもない私は、「私」が大切ではなく、また他者が大切にしているあらゆるものも、「大切にしている」という行為は理解できても、その動機や執着心がまるで理解できないのです。
 私には何も大切なものがありません。
 私には何も大切にすることができません。
 私は誰も大切ではありません。
 そして、誰にとって「私」が大切だろうと、そうでなかろうと、私には一切興味が持てません。

 それが生来持ち合わせた欠落感から来るものか、あるいは、ただ単に反社会的なのかは分かりません。
 恋(とその喪失)から数えて二十一年、同様の感覚を持つ人間、持たない人間との接触を経て私が理解できたことは一つだけです。

 「私」はきっと、
 未来永劫価値が無いということです。

 今までそうだったから、という経験知ではありません。
 仮に私が今後、何らかの偉業を成し遂げ生を全うし、その死を惜しまれたとしましょう。
 それでも私に価値は無いでしょう。全世界がそうではないと思っていても、私は私の有意性を認めることが出来ないでしょう。

 「生きる意味とはなんだろう?」という問いがあります。
 強いて言えばその問いと私は、全てが真逆です。

 あなたは私にとって、まるで価値の無い人間です。
 ですが、あなたにはあなたを大切にする存在がいます。
 私にもいるかもしれませんが、私はそれがちっとも嬉しくありません。
 何の感慨もありません。
 表情や言葉で感謝を表すことはできますし、そのような自らの感情も自覚できます。
 しかし、心の芯の方ではそれが欺瞞、演技のようなものであることも同時に理解してしまっています。
 私はそれが酷く虚しい、恥ずかしい、苦しい、痛ましい、自己中心的だと感じる、反省したい。
 (という演技をすべきだと身体から指令が出る)

 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です……。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間です。
 私は世界で最も価値の無い人間
 私は世界で最も価値の無い
 私
スポンサーサイト