In shoreline bed.

 修学旅行の夜を思い出してください。
 南国の波の音を聴きながら、そこそこのホテル、先生達も宴会を始める頃。
 僕達はアキラの「女子んとこ、行こーぜ」の一言で色めきだって、でも「全然興味なんてねーから、ただ、暇だし」って態度を完璧に演じながら部屋を抜け出しました。当時流行ったスパイのテレビゲームの真似事をしながら。
 大体が部屋割りなんてもの、生徒達に任せたら可愛い子ってのは一箇所に集まるものでしょう。僕達も即座にそこへ行きました。
 ノックして「入れてよ」の一言まで、僕も実に楽しい心地でした。まだ赤を知らなかったから。
 女子達は輪になって、常夜灯の灯りのみでトランプに興じているところでした。皆の目が心無しかギラついて微かな輪郭の中に浮かび、僕には舌をちらつかせる蛇のように見えました。この暗闇で一瞬のうちに、誰もが得体の知れない何かにすり変わってしまったかのようでした。
 僕はまずその輪には加わらず、ベランダの方に行きました。この部屋は位置がいい、エメラルドの海と白い砂浜、波打ち際が地平線まで続くのが見える。
 しばし腹の探り合いをする男女のヒソヒソ声を背に星を眺めていると、僕の隣にユカリが来ました。ユカリはお世辞にもスタイルや顔がいいとは言えませんでしたが、運動部の快活さと気配りの良さで女子グループの中心に必ずいる存在でした。
「こっちは星も綺麗だね、よく見える」
 とユカリは首筋に息がかかるほどの距離で囁きました。僕は目線を外しながら小さく頷きました。
 日頃から妙に突っかかってくる彼女の煩わしい態度に、その時漸く合点がいきました。その時まで僕は、てっきり彼女達は陰鬱で手足のひょろ長い、孤独な少年を面白がっているに過ぎないと思っていました。それはある部分では当たっていたのでしょうが、少なくともユカリにとっては少し違う面もあったようです。しかしその事に気付いた僕は、尚のこと憂鬱で後ろめたい気持ちに捕まりました。古くからの想い人に、すでに振られているにも関わらず未だ固執していたからです。
 こういったことは何度もありました。そして都度、僕は自分にその資格が無いことと、僅かな優越感を得る矮小な自分にほとほと嫌気が差して自暴自棄な態度で相手を傷つけるのが常でした。
「好きな人、いるの?」
 しばし間が空いて、二月にも関わらず生暖かい風が耳を撫でるとき、風と共にその質問は届きました。無垢で屈託のない、少女漫画のようにいたいけな心情に思えて、下腹を黒い炎で焼かれるような気持ちになりました。
 拒絶も順応も出来ない、愚かで臆病で孤立した山羊、草を食べることにすら罪悪感を感じるような……。
 そのときドアの側に居た誰かが「隠れて!」と矢のように言いました、皆は示し合わせたかのように柱に隠れ、トイレに隠れ、僕とユカリはベッドに潜り込んで布団を被りました。寝台は当然ながらシングルサイズで、二人共歳の割に図体の大きいものだから、一枚の布団に潜る為に殆ど抱き合うような形でした。
 突然の騒動に荒らげた息が無理矢理には収まる頃、粗野なノックがして扉が開きました。
 ユカリが僕の手をあまりに強く握るので、自分の手が汗ばんではいないか、などと悠長なことが頭をよぎりました。近くで見るユカリは存外に睫毛が長く、不安げに揺れる黒目がちな瞳と白い肌に赤身の差した頬は、随分と暗がりの中で可愛らしく思えました。
 懐中電灯が部屋を一通り観察して、小さく溜息が聞こえたあと扉は閉まりました。時間にすれば大したことはなかったはずですが、一晩中ユカリの吐息を聞かされたような心地でした。
 部屋の雰囲気が和らいでも、僕達は布団から出ませんでした。正確には僕だけが動くことが出来なかったのですが、ややもって今迄とは違う、日向に寝転ぶような健やかな感触が湧き上がってきました。何千回目かの吐息と、時折唾を飲み込む音と、くぐもった熱気と、感覚の失せていく手がそうさせたのかもしれません。
 この瞬間だけは、賑やかで健康で、何かにつけて慌てふためく、まるで自分とは反りの合わないこの厄介な存在を認めてやりたい、精一杯愛でてあげたい、そんな尊大で優しい情緒が溢れてきました。
 同時に、今余りにも強く結び付いたこの腕は、きっとこの布団を出たら他人になるという、強い予感も去来しました。
 周りが布団から出てこない僕達を怪訝に思い始める頃、僕は、僕が僕であるために欠かせない重要な何かを損なうような心情でベッドから抜け出しました。
 自分の部屋に戻る時、僕はキスすらしていないのに、喪失感でいっぱいでした。
 やはり自分には無理なんだ、誰しもに当たり前のことが、誰しもに与えられた幸せが、温もりが、無理なんだというおかしみが……。

 数年が経ち、故郷の花火大会で友達とスーパーの買出しに来ていた僕は、ばったりユカリと会いました。
 服飾科のある高校に行っただけあり、そこそこ垢抜けていました。化粧は怖いな、そんなことを真っ先に思いました。
 お互いの久々の挨拶も妙に空回り、それはお互いが核心に触れないよう慎重に、あまりに慎重で完璧なものだから空々しい、安いドラマのような態度がそうさせたのです。
 別れようかというところで、彼氏らしき男が親しげにユカリの肩を叩きました。
 ユカリは瞬間的に僕の顔を見て、「しまった」とでも言うかのような表情を浮かべました。
 僕はそれが妙に可笑しくて、予感通りあの夜からからかうことも目を合わせることも無くなった僕達の間に、当時の甘さのようなものがほんの僅かに蘇ったような気がしました。
 だから、じゃあねと気兼ねなく笑って手を振って別れました。

 あの夜僕はユカリに、ユカリではない誰かを見出していました。
 きっとあの布団の中は別世界に繋がる時空のトンネルで、それをくぐった僕は全くもって異質の、それでいてありのまま僕という別種の生き物になれたのです。
 それはユカリもきっと同じで、言ってしまえば身勝手で幼い利己的な願望を相手に重ねていただけに過ぎないのかもしれません。ですがそれは思い返すとこそばゆく、取り留めのない、小さい頃食べた飴玉のようなものでした。
 例えば僕や誰それの出来事ではなく、誰もが一度は通るトンネル、通り過ぎたトンネルの記憶。
 大人になると何度でも舐めた気になるアレはビー玉で、硝子の味に騙されているんだと、恐ろしくなってしまう。
 とても大切で、どこにでもありふれていて、簡単に壊れて、だからどうしても守らないといけない、かけがえの無い記憶。
 だからもしまた会うときは、波の音がする布団の中で。
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