対話というもの
あまりに一般的で通俗的でありながら、瞬発力と準備、機転と予備知識、反復と先天性、時間と訓練、声質とその反響、声量の制御が問われるクソッタレなゲーム「会話」。
「コミュ力」とかいうババシャツみてえなゴミセンスの言葉が跋扈して久しいけど、こんなものを攻略する必要は無い。ゼロ。全くの無。振り回されてるバカどもは「この壁に道具を○○個持った状態で王様の椅子の三マス右の壁に15回ぶつかる」みたいなバグを探してるデバック状態。
これがおよそ一つの会話で「こいつ少しだけイケてるじゃん」って方に0.01ミリ評価を上げるのに必要な労力。費用対効果がカスすぎる。
そんなものは「だるい」「帰りたい」「やりたくない」って言いながら低レベルな仕事して、休日は一日中家で携帯いじって飯食って携帯いじって眠くなったら寝る、そんな奴だけがやってればいい。
ライブした方が9000倍効果がある。それでもバカには90ミリぐらいしか伝わらんけど。クソ過ぎる。殺すぞ。殺す(生命を絶つ)の効果は-∞。絶対的。やばい。会話の効果がミジンコレベル。
基本的に音楽に携わる人間は、皆会話がヘタクソだなと思う。
俺も上手い方じゃないが(俺の謙遜に部類する語彙は全て一種のレトリック)、他者に影響を及ぼす手段として、数ある中から音楽(芸術)を選んだ人間が本来的にコミュニケーションが上手いはずは無い。だからそれでいいのだ。
それがこの国において何故それがまかり通らないか、といえばこの国では見世物というものは基本的に「橋の下」「与太者」「根無し草」という文化的風土があるからだろう。
この辺の感覚は楽市楽座とか歌舞伎とか吉原とか、本当に古くから遺伝的に刻まれた情報によるものだと思う。
だからAKBが握手券商法を始めたとき、俺は「時代が一周したんだな」と思っていた。寄席の世界に音楽も戻ってきたんだな、という。これは音楽が虚飾と欺瞞から実力主義に回帰した、と前向きに捉えていたが実際は違った。
どさ回りの悪い部分、「客に媚びる文化」だけが浮かび上がってしまったなと。俺がツアバン嫌いな理由はこれ。もっと厳密に言うと本一冊になるけど、お前にそれを覚える短期記憶力は無い。だから俺は黙る。
「橋の下」と端的に書いたが、要は乞食のやることなのだ。
「お、なんか乞食がおもしれーことやってるぞ」というのが、日本人がステージに立ってる人間を見る目なわけ。文化的にそうなんだから仕方が無い。そんなことないよ、っていう人は、その人が多少垢抜けてるか、何か勘違いしてるだけ。全体がそうだったことは一度も無いです。潜在的にはほぼ全員ある。自覚的な人だけ脱却している。
心当たりチョーーーーーあるだろ? ちなみに地方だと3~5倍はキツい。東京はマシな方。若い世代だと特に。
だからこそ乞食は基本的に気高く意気揚々と振舞う必要があるのだけど、このことが分からない無知な愚図が全員の足を引っ張ってる。昔からそう。媚びたり、必要ないことをベラベラ喋ったり。
なぜこうなってるかというと、今32~5くらいの世代辺りから脱却してるんだが、この国で経済的に最も豊かなのはそれより上の世代で、その世代がこの国で一番金を持っているから。
だから手っ取り早く言うと、そいつらが死ねば文化の質は変わる。今も発生という意味では存在しているが、それが世に出る体制が変わる。
俺は非人道的なレベルで音楽の文化を敬愛しているので、文化に金を投資している老人以外は心情的に死刑に値すると思っている。無論、基礎的な生活が収支とイーブンな人は別だが、医療介護があるのでそれすら穏やかには見てない程度に俺は冷酷。
会話において最も強力なカードは沈黙。今は全員喋りすぎ。SNSもそうだけど、「それが好きな人間」をガッカリさせてしまうようなワックな情報開示が多すぎる。ワクワクしない。
時に秘すること、秘すれば咲くということ、語れば散ること、という構えを持たないと全ては下賎なものに堕落する。芸術なんかは特にそう。
あ、俺が黙って近くに立ってたりするのは「カストラートレッドの右は角か?それとも緑か?ペーソスは成層圏で燃え尽きながらアリシアに突き刺さって肩甲骨になったが、屁の河童にプリングルスもアンダルシアと猫に食べたしミミズに俺は浸透圧の電波だ」とか考えてるときなので放っておいてくれ。
「ロックはダサいもの」「ロックはハッタリ」これさえ抑えておけば、ロックを好きな人、ロックを鳴らす人は不幸にはならない。
逆に言うと、これすら分からないレベルでダサい奴が多い。戦犯はB’zと矢沢栄吉とBOOWYと聖飢魔IIだ。他にも沢山あるが、そんなこと言ったら全員だ。長渕は面白すぎるから大丈夫だ。
ナルシシズムとは違う意味で、自分をこの世で最も美しい存在として保つためにロックは存在する。それも分からん奴に俺は多くを語りません。沈黙を食らえ。
「コミュ力」とかいうババシャツみてえなゴミセンスの言葉が跋扈して久しいけど、こんなものを攻略する必要は無い。ゼロ。全くの無。振り回されてるバカどもは「この壁に道具を○○個持った状態で王様の椅子の三マス右の壁に15回ぶつかる」みたいなバグを探してるデバック状態。
これがおよそ一つの会話で「こいつ少しだけイケてるじゃん」って方に0.01ミリ評価を上げるのに必要な労力。費用対効果がカスすぎる。
そんなものは「だるい」「帰りたい」「やりたくない」って言いながら低レベルな仕事して、休日は一日中家で携帯いじって飯食って携帯いじって眠くなったら寝る、そんな奴だけがやってればいい。
ライブした方が9000倍効果がある。それでもバカには90ミリぐらいしか伝わらんけど。クソ過ぎる。殺すぞ。殺す(生命を絶つ)の効果は-∞。絶対的。やばい。会話の効果がミジンコレベル。
基本的に音楽に携わる人間は、皆会話がヘタクソだなと思う。
俺も上手い方じゃないが(俺の謙遜に部類する語彙は全て一種のレトリック)、他者に影響を及ぼす手段として、数ある中から音楽(芸術)を選んだ人間が本来的にコミュニケーションが上手いはずは無い。だからそれでいいのだ。
それがこの国において何故それがまかり通らないか、といえばこの国では見世物というものは基本的に「橋の下」「与太者」「根無し草」という文化的風土があるからだろう。
この辺の感覚は楽市楽座とか歌舞伎とか吉原とか、本当に古くから遺伝的に刻まれた情報によるものだと思う。
だからAKBが握手券商法を始めたとき、俺は「時代が一周したんだな」と思っていた。寄席の世界に音楽も戻ってきたんだな、という。これは音楽が虚飾と欺瞞から実力主義に回帰した、と前向きに捉えていたが実際は違った。
どさ回りの悪い部分、「客に媚びる文化」だけが浮かび上がってしまったなと。俺がツアバン嫌いな理由はこれ。もっと厳密に言うと本一冊になるけど、お前にそれを覚える短期記憶力は無い。だから俺は黙る。
「橋の下」と端的に書いたが、要は乞食のやることなのだ。
「お、なんか乞食がおもしれーことやってるぞ」というのが、日本人がステージに立ってる人間を見る目なわけ。文化的にそうなんだから仕方が無い。そんなことないよ、っていう人は、その人が多少垢抜けてるか、何か勘違いしてるだけ。全体がそうだったことは一度も無いです。潜在的にはほぼ全員ある。自覚的な人だけ脱却している。
心当たりチョーーーーーあるだろ? ちなみに地方だと3~5倍はキツい。東京はマシな方。若い世代だと特に。
だからこそ乞食は基本的に気高く意気揚々と振舞う必要があるのだけど、このことが分からない無知な愚図が全員の足を引っ張ってる。昔からそう。媚びたり、必要ないことをベラベラ喋ったり。
なぜこうなってるかというと、今32~5くらいの世代辺りから脱却してるんだが、この国で経済的に最も豊かなのはそれより上の世代で、その世代がこの国で一番金を持っているから。
だから手っ取り早く言うと、そいつらが死ねば文化の質は変わる。今も発生という意味では存在しているが、それが世に出る体制が変わる。
俺は非人道的なレベルで音楽の文化を敬愛しているので、文化に金を投資している老人以外は心情的に死刑に値すると思っている。無論、基礎的な生活が収支とイーブンな人は別だが、医療介護があるのでそれすら穏やかには見てない程度に俺は冷酷。
会話において最も強力なカードは沈黙。今は全員喋りすぎ。SNSもそうだけど、「それが好きな人間」をガッカリさせてしまうようなワックな情報開示が多すぎる。ワクワクしない。
時に秘すること、秘すれば咲くということ、語れば散ること、という構えを持たないと全ては下賎なものに堕落する。芸術なんかは特にそう。
あ、俺が黙って近くに立ってたりするのは「カストラートレッドの右は角か?それとも緑か?ペーソスは成層圏で燃え尽きながらアリシアに突き刺さって肩甲骨になったが、屁の河童にプリングルスもアンダルシアと猫に食べたしミミズに俺は浸透圧の電波だ」とか考えてるときなので放っておいてくれ。
「ロックはダサいもの」「ロックはハッタリ」これさえ抑えておけば、ロックを好きな人、ロックを鳴らす人は不幸にはならない。
逆に言うと、これすら分からないレベルでダサい奴が多い。戦犯はB’zと矢沢栄吉とBOOWYと聖飢魔IIだ。他にも沢山あるが、そんなこと言ったら全員だ。長渕は面白すぎるから大丈夫だ。
ナルシシズムとは違う意味で、自分をこの世で最も美しい存在として保つためにロックは存在する。それも分からん奴に俺は多くを語りません。沈黙を食らえ。
スポンサーサイト