ゲロとクソにまみれた掃き溜め

君を忘れたくないから、君を赦しはしないよ

偏光


 立ち込める煙、寝室、横たわる君の背中、薄布越しの背骨。
 また同じ間違いをした。また明かりの方に歩いていってしまった。
 日差しの下では妖精たちがウェッジウッドのコップに紅茶を注いで、短剣で串刺しにされた蝶が鱗粉を撒いている。
 木のそばでかかんで、俺はじっとそれを見ている。光の中で美しい人たちが談笑している。
 俺はもう何か、粘液と塵芥を生み出すだけの醜い肉塊だ。ご機嫌な兵隊達が輪になって囲っている。俺はその輪の外だ。
 兵隊達はブリキの玩具で、俺みたいなものがその内側に入ろうと見るや、一転逆さの形相で睨めつけ、手に持った槍でブスブスとつついて笑うのだ。あとで百舌の早贄のように掲げて、その醜穢を仲間内で囁きあうために。
 美しい人たちは知らない。

「でも素っ気無い態度を見せて、いかにも傷ついてません、って顔で守るのでしょう」
「ああそうです、それの何が悪いんですか。それの何が悪いんですか」
 ヴェルベットの上で転がってケダモノの習性に馴染んでみるんだ、それでもきっと分かることはいつも陳腐で、この身体は、美しい人もそうだ、身体は所詮蛋白質だ、ただの輪郭だけ。
 爪弾きになるのが怖いのでしょう、それの何が悪いのでしょう、必死で手に入れたものでしょう、それを守るためなら別の爪弾きを蹴飛ばして、誰だってそうでしょう。
 でも君にはして欲しくない、君にはして欲しくない、して欲しくない、美しい君にはして欲しくないのに……。
「それが傲慢と言って、貴方は自分を醜いって枠に押し込めて、私を美しいって枠に押し込めて、だから自分は何をしてもいい、どうせ醜いのだから、そういう免罪符を貼り付けたいだけでしょう」
「でも君にもう興味は」
「無いなら鮮やかにすればいいのに」
 それが出来たら苦労はしない。端っこに滲むのはいつもチャチな猜疑心だけ。

 人の醜いところを見たら、自分の醜いところが具現化して、まざまざと見せ付けられるような気になるだろう。
 明るみに出たらもう、それは二度と戻ることが出来ない気がして。
 いちいち全てに気を遣うには時間も覚悟も足りないんだ。熱意だけでは分かってくれない。もう誰も熱意だけでは。
 鉄で出来てる、鉄で出来てる、ああ遠くを見てる。
 何も変わらない、誰も変えようがない、誰も干渉できない、そっとしておいてくれているのか、遠巻きに見ているのか、それすらもう分からない。
 哀しくはない。寂しくはない。ただ少し考え事がしたい。
 何かがまた横切る、優しい目だ、視線を落とす、優しくされる価値なんかない、誰かに優しくしたい、もう誰でもいい。
 暗闇の中を歩いてきた。光のある場所は避けて歩いてきた。時々ぼうっとして突っ込んで、手痛いこともあった。
 でもそこで振り返って、よくよく思い出してみるんだ。
 俺が歩いてきた道は、本当に真っ暗だったろうか。遠くの明かりで満足したこともあったろう。誰かが立ててくれた灯りもあるだろう。
 この先もきっと真っ暗なんだろう。
 だから突然君の近くにいたい、ありえないほどの近くで、お互いそうだとも気付く間もなく驚いて。
 君も暗闇の中を歩いてんだろう。
 悪い夢で目が覚めたり、窓の外を見たり、爪先に水滴が当たったり、珈琲を最後まで飲み干したとき、「ああ…」と思うとき、傍にいるんだ。
 暗いだけなんだ。

BLACK

白線の上を歩くこどもたち
踏み外した道、目を逸らす君

泣き腫らした黒いピエロ
空中ブランコに見惚れた
落ちこぼれに降る鞭の雨
ゴキブリ這いつくばる

I want you back
幼い頃は友達で
But I'm BLACK
雑種の命は値引き
Stranger
たかが肌の色如きで
She don't stand by me

いつも同じ夢を見るんだ
沢山の風船をくわえて
あの柵を越えて
君と踊る夢を

「見セテクレタ絵本デハ
王子ト姫ハ結バレタノニ……」

I want you back
爪も牙も持たないのに
But I'm FREAK
死ぬまで見世物小屋
Stranger
綺麗な髪と言ってくれてた
But I'm BLACK...

笑えない、もう
乗れない、ボール
渡れない、ロープ
成れない、人に

回るメリーゴーランド
俺を見て笑う
大人の君は
綺麗な白になったね

(Ghetto)

紫煙/紫音

 「ジョイントくれよ……」
 ヤニで完全にベタついた、ケツの穴より不潔な口で粘着質な音を立てながらタカが言う。
 窓に何度も体当りする蛾の羽音がやけに耳障りだ。網戸は埃をかぶってクモの巣が張り、もはやこの部屋に家主はいないと主張するかのよう。
 マンションの一階、煎餅布団の上で原因不明の腹痛に悶えながら、俺は枕元に置いたはずの水差しを探す。あるのはひっくり返った灰皿だけ。
 部屋の隅でユミは一心不乱に携帯をいじっている。犬のように頭を下げて唸っているタカに、ヒロが煙草を投げた
「これでも吸ってろ、白いのあるけどお前、イソジンしねえととても回せねえわ。勿体ねえ」
「マジ、ウィドウあんの。ちょっと後で、マジ、サグ入るから後でな」
 目を剥いて声を荒げるタカに、辟易した様子でヒロはさっき投げた煙草を指差した。
「やんねーって、全部自分吸っちまう奴には。それフィルター、少し沁みてるから我慢しな」
「ありがってえ、ああ、グミ食いてえな、グミ……」
 最近のタカは口臭だけじゃなく、体全体から腐ったオレンジのような匂いがする。終末医療の老人は、そのうちから死臭が立ち込めてくると聞いたが、あれは内臓がすでに腐っていってるからだそうだ。コイツも似たようなもんだろう。
「ネコ大丈夫? 顔青いよ」
 カナが俺の頭を撫でる。嫌な感じだ。乱雑にその手を払い除けて、台所まで水を飲みに行く。が、まともなコップは一つもない。
「コンビニ、行ってくるわ」
 ガラスを擦ったような酷い声、自分が発したと気付くのに少し時間がかかったぐらいだ。
「アタシも行くっ」
 カナが赤いパンティを穿いてクロエのショルダーバッグを掴むと、俺の腕にしがみつく。暑苦しい。
 煙草に火をつけながら、道すがら昨夜のセブンでのことを思い出した。
 シャバいイベントだった。DJは尽くクソみてえな曲を流し、極めつけはトリのMC、レコ発だか知らねえが皆火を掲げさせて揺らせ、と来たもんだ。ワックなんかまだいい、あれじゃ出来の悪い新興宗教だ。田舎者が無理してる、って感じ。
 テキーラの飲み過ぎでキレた俺がイベンターを小突いたら、大学生が囲ってきやがった。そのくせ何もしねえ、DJが感づいて音量を上げるから、余計にムカっ腹が立って百均ライターを握ってニヤついた輪っかの一人をぶん殴った。即座にヒロが仲裁してくれなきゃもっと拗れてただろう。睫毛と眉毛を炙ってやるぐらいのことはするつもりだった。けど、俺はそういう仲裁のときのクソみたいなヌルさがまた、死ぬほど癪に障るんだ。ありゃユミのイトコらしい、あとで言っとくからとぶっきらぼうにユミは言った、俺はユミが嫌いになった。
「ネコ調子良かったらどっか行きたいンだけどなあ」
「あいつらが動かねえだろ」
「違う二人で」
 やなこった、と言いかけたが、外の空気は吸いたいな、と確かに思った。あそこは煙というよりか、カビを吸ってるに等しい。多少の不衛生は気にするタチじゃない、しばらく家に帰ってる訳でもないが、もはや汚物の域と言っていい。いつ見ても便座の中に蝿がくっついてやがる。
「何処がいい」
「ゲーセン?」
「うるせえとこは嫌だ、今日は」
「じゃあ公園」
「ガキがいるだろ」
「シブヤ!」
 人の話聞いてねえのかコイツは。コンビニで胃薬とスポーツドリンクを買って、結局一度あの部屋に戻ることにした。ネタを忘れてた。

 夕刻、ラウンドワンの受付は中々の美青年で、ボーリングの靴を選んでる時にカナにあーゆーのはどうだ、俺よりよっぽどイケメンだったろ、と聞いた。
「興味ない」
 俺をひと睨みして、下着がスケスケの白いワンピースの裾を翻した。早足のつもりだろうが、普通に歩いても追い越してレーンに着いた。貞操観念は壊滅してるくせに、こいつの一途さが俺にはとんと理解出来ない。
 2ゲーム目が終わったところでタカがトイレに駆け込んで、そのまま戻ってこなくなった。ユミとヒロがそれを見に行って、俺が煙草に火をつけて、肺の底までタールがこびりつくように、深く吸った。そして吐き出しながら言った。
「あのな、お前が持ってるそのバッグ、それを買うのに何人のオッサンとヤったんだよ? 俺はそういうのは辞めとけって言ったし、辞めろって言ったことをやり続ける女に関心を持っちゃいられねぇんだよ。分かる?」
「他の誰ともするなってこと?」
「違う、全然違う。そんなことはどうでもいい。なんていうかもう……疲れたんだよ、そういうのは。惚れたとかヤったとか寝取ったとか、貢いだとか稼いだとか……所有欲みたいなものにウンザリなんだ」
「アタシが欲しいのはネコがくれるバッグなんだけど。そしたらお金なんか要らないし、オメコする必要もないし」
「そんな話はしてない。自分を切り売りして、価値を下げるような真似はしないで欲しいんだよ」
「ネコの方こそ、わざわざ死にたがってるようにしか思えない。変なものギったり、いきなり殴りかかったり怒鳴ったり。そういうの、自分の価値下げてんじゃないの?」
「別に物なんかは、捕まんなきゃいいだろ。パクられたこともねえし……いいや、この話は」
「全然良くないじゃん。ネコが言い出したんでしょ」
 そのネコって呼び方がまず癪に障るんだよ、と喉まで出かかったが、飲み込むために胸ポケットに入れていた小瓶のワインをがぶ飲みした。
 そもそも論点が大きく間違っていて、こういうとき男らしいとか正論って類のものは、女一人養えるだけの収入とか世間体を整えられるだけの人並みの暮らしを俺が用意してカナを迎え入れることだ。それが余りに非現実的で遠く、おまけに何の実際的な魅力を感じないところが問題だ。それを分かっていながら口にしない段階で俺自身は卑怯者で、堕落した存在の傍にいることで自分までなんとかなるんじゃないかと楽観している甘ったれたクソだ。
「もうオメコしたくない?」
「だからそんな話じゃねえ!!」
 思わずテーブルを思い切り叩く。驚いて振り返ったのは隣のレーンの人間で、カナは少し目を見開いたぐらいだ。オメコって言い方も、如何にも下品で辞めろと何度も言ったのに変わらない。俺も、ついさっきカナに指摘されたことを早速やっている。俺達は変わらない。俺達は進歩がない。俺達は緩やかに腐っていってる。
 重苦しい沈黙の中、トイレから三人が戻ってくるのが見えた。タカは殆どヒロにしがみつくようにして、顔はもう土気色で足がふらついてる。おそらく過剰摂取した睡眠薬の離脱症状だ。あれほど医者に厳しく言われたのに、アルコールでハルをがぶ飲みするのを辞めない。もうとっくにハルじゃ効かなくなってる、けど他のクラスが手に入る当てもない。眼圧が高くなって魚のような出目になりつつある。
「帰ろう」
 ヒロが言う。誰もそれに反応することなく、俺達はゾンビのようにそこを離れた。
 帰る場所は何処にも無い。

「もう捨てていかないか?」
 後部座席ではカナ、ユミ、タカが寝ている。だからおそらくヒロは俺に言ったんだろう。こいつまで独り言を言い出したら、俺はもう大人しく逃げ出すしかない。
「いいんじゃないかな。ハッピーになれそうだ」
 適当な相槌。車内はパラノイド・アンドロイド。ヒロのチョイスだ。
 街灯がやけに伸びて見える。程よく汚いフロントガラスに、虹色の輪が幾つも浮かぶ。だから夜はいい、幾許かは。
 ヒロはしばらく考え事をしてるようだった。
「ネコは凄ぇよ、クリーンなのにさ」
「はは」
「……俺、タカ見捨てられねえのは、こいつバカで見てると安心するってのもあるけど、結局同類だって思うからなんだよな」
 ってことは、俺は同類だと見られてないのか。良かった良かった、そいつは良かった。乾杯したいぐらいおめでたいな。
「本気で嫌そうに見えるけどな」
「否定はしないな。でも、俺初めてパクられたのがちょっとチャリ借りただけでよ、運が悪くてそのまま前科ついちまったんだ。てっきり殴られるだけで済むかと思ってたから、本気で人生終わったと思った」
 現状はまさしく人生終わってるけどな。
「運が悪いやつってのはいるんだよな……俺やタカがまさにそうなんだ」
 確かにヒロは運が悪い。さっき言った話もそうだし、施設上がりだ。極めつけはフランスにパティシエの修行で留学している妹がいたが、日本に一時帰国する一週間前に撃ち殺された。庭先でホームパーティしているところに、チンピラの黒人二人がやってきて騒ぐので、出て行けと言ったらいきなり撃ってきたらしい。
 他の人間なら嘘だと決め付けるとこだろうが、俺はすんなり信じた。いつも不幸自慢するでも誇張する身振りでもなく、ファミレスのウェイターが注文を復唱するような、平易な物言いだったからだ。
 こういう人間は確かにいる。例えば今俺とヒロがブリブリになって検問に捕まっても、パクられるのはヒロだけだ。分かるやつには分かるが、人生なんてそういうものだ。
 何も起きないヤツは何故か本当に何も起きず、平和にのうのうと過ごして不運なヤツを笑ったり嘲ったり疑ったり踏み潰したりしながら、退屈な毎日を謳歌するわけだ。不運なヤツが必死で欲しがる退屈な毎日を。
 結局のところ、こんな風に淀んだメリハリの無い毎日も、重要なものを湯水のように浪費していることは分かるが、俺達にはそうまでしないと手に入らないものなんじゃないかと思うときがある。いつも腹ペコで寝不足で頭が痛くて、でも目を閉じるには頭の中が余りに感情や物で溢れかえってて、誤魔化すために何かを摂取したり吐き出したりして、それでも尚バランスってヤツを頑張って保とうとして、平気なヤツは遠巻きにニヤニヤして一気しろ、一気しろと煽るんだ。
「ヒロ、カナとヤりたいんだろ? 俺に遠慮しないでいつでも好きにやりなよ」
「え?」
「よく言われるんだよ、すぐお尻触ってくる、今度一人で俺の家に遊び来なよ、だっけ」
「いや、それは」
「いいんだって。車止めてくれ」
 ヒロのこういう顔を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 だが俺は知っている、この戸惑っている表情は罪悪感からではなく、どうすれば事無きを得られるか、そればかりにもう頭が回っているから浮かべるものだ。
 その考えは答えには思い至ってないだろうが、車は道端に寄せられた。
 俺の中には只、哀れみの感情があるのみだ。
「俺の代わりが見つかるといいな。多分四人だと近いうちに解散だぜ。じゃあな」
「お、おい」
 俺はすぐに扉を閉めて歩き出した。どこだか全く分からないが、まぁ大きめの道だからなんとかなるだろう。
 ヒロの車が俺を追い越すことは無かった。

 他のやつらからすれば何の価値も無い、薄っぺらいこの毎日こそ、敏感すぎるヒロやカナ、タカとユミには必要なものだったのかもしれない。
 そして俺は、例によってもう満足していた。もうこいつらの暮らしが、人生が、その行く末まで分かったような気がしてしまった。
 それに乗り合わせていくのは至極簡単で、まぁそれなりに笑ったり怒ったりして早めに死んだと思う。
 どうしてそれが、とてもお望み通りって感じのそれがお気に召さなかったのか、自分でも分からない。
 だが思い返して、打ち込むものの無い人間の苦しみは想像に難くない。その暮らしをバカにする人間を俺は認識しないだろう。
 死に物狂いで、何一つ対抗する手段も無く、ただ少しずつ燃え落ちていくだけの火。立ち込める紫の煙。
 見えない者には、一生見えることの無い。

エロティック

 俺が穀潰しとしては一丁前でブラブラしてた頃、大人はちょっぴりバカだった。いつもバカだとは思うが、統計的に全体がマシな時期とバカな時期が音波のように飛び交っていて、丁度そのバカな時期だった。
 大人がバカだと子供は小狡くなる。夜中に出歩くのが特権だとナイーヴな理想に浸っていた俺は、夜毎ツレがいようが一人だろうがそこら中をほっつき歩いた。
 俺にしろ当時のツレにしろ、皆何かを探していた。それは夜の街にしか、少なくとも陽の当たる場所には無いということだけは強く確信していた。
 いつも大して何か起きないが、今夜は何かが起きるかも、何かを見つけるかも、そんな甘っちょろい願望に突き動かされて。
 ある時エノモトが「エロ本の自販機からすっぱ抜いて売り捌こうぜ」なんて案を持ってきた時は、こいつは天才だと素直に尊敬した。
 今では珍しくなったが、DVDとだけ看板の立った、自販機をトタンで覆っただけの小さな小屋が田舎の街の外れには点在していた。今でも時折山道なんかでは見かける。アレをターゲットにして、生身よりエロ本が好きなんじゃないかというほど紙媒体に狂った先輩に売りつけることにしたのだ。

 人気の滅多にない駅の地下道で待ち合わせして、暇だった俺は「いつも心に綺麗な華を」なんてくだらない標語の書かれた張り紙をライターで燃やしていた。もう何度燃やしたか分からないが、三日もすると貼り直されてやがる。この手のシステムの執念は一体何なんだ、何の力が働いてるのか分からなくて、やたらと不気味だ。
 燃え尽きたところでエノモトがやってきて、挨拶のハンドサインをしたところでコンバンワー!と威勢のいい挨拶が背後から飛んできた。二人共面食らって振り返ると、酒の入って上機嫌な外人女二人組が肩を組んで歩いてきた。
 夜の出会いも外人も両方この街じゃ珍し過ぎるもので、エノモトはすっかり固まってしまった。すかさず俺は「コンバンワー!お姉さんたち綺麗だねー!どこ行くのぉー?」と声を掛けて着いて行ったがが、よくよく考えりゃコイツらデブ故に巨乳、みたいな国際サイズの体重なのに、流石に浅まし過ぎるか、と思い直してケツをひっ叩いて切り上げた。
 何の漫画の影響か分からないが全身黒ずくめで、どーせレイバンの似合わないサングラス、おまけに煙草はブラックデビルという、かったるい出で立ちのエノモトを放っておくのも、少しばかり気が引けたし。
 それにしてもどうしてこう、男同士で面白い悪戯を思いつく奴は異性にゃトコトン奥手で、俺みたいなユーモアのスカンピンは軽くいっちまうもんなのか。自分でもエノモトの方が、童貞でも彼女いない歴イコール年齢でも上等だと思った。

 仕切り直して例の小屋に近付くと、牡丹雪の夜の中で煌々と輝くそれはヘンテコな神々しさを纏っていた。
 エロ本なんてもの一度も買ったことのない俺は、こんなものに多大な労力が注ぎ込まれていることがちっとも理解出来なかった。おまけのその自販機の要塞っぷりったら、無いぜ本当に。商品が金網越しの自販機なんか他にあるか?
 謎の威圧感に今度は俺が萎縮したが、エノモトは意気揚々と革手袋(勿論黒い)を嵌めて野暮ったいリュックから殺虫スプレーとチャッカマンを取り出した。用意周到さに笑えてくる。
 色々試したけど殺虫スプレーが一番燃えるわ、そう言って即席の火炎放射器で第一関門の分厚いプラスチックを炙った。
 外で見張りをしていたが、中の炎で小屋ごと発光して遠くからも目立ちまくっている。パトカーが通ったら即アウトだな、場所が場所だから通報すべきか迷ったことにしよう、と言い訳だけは組み立てておいた。
 炎が消えて氷を割るような音がしたので中を覗くと、柔くなったプラスチックにアイスピックを何度も突き立てているところだった。俺にもやらせてくれと交代したが、それにしても手こずった。なんだこのヤケクソみたいな頑丈さは。明らかに改良に改良を重ねている。俺は先人を呪った。
 第二関門の金網は、これまたエノモトが取り出した番線カッターで容易に切断できた。因みにエノモトの影のあだ名はドラえもんだ。ずんぐりむっくりした体型でダミ声だったからだが、次々道具を取り出す様に、これを見てるのが自分だけであることを悔やんだ。黒ずくめのドラえもんだ、おまけに器物破損の。
 金網で終わりかと思いほっとした俺達に、自販機は容赦なく絶望を突きつけてきた。最初のプラスチックを遥かに凌ぐ厚みの硝子がまだいたのだ。
 生唾を飲み込んで、ひとまず休憩しようと離れたところでタバコを吸うことにした。冬の煙草は旨い、特にこういう重い雪の降る時は。おまけに破壊活動といういい運動をしたから、体も温まっている。周りはほぼ無音だが、時折何故か終電も終わってるのに踏切のような音がする。
 小屋を視界の隅にダベっていると、エノモトがあっ、と素っ頓狂な声を上げた。今、オッサン入ってった。
マジかよ、どうする、あいつチクるかな、ボコす? 何か買ってたらそれだけ取り上げて捌くか? こういう時だけフル回転する俺達の脳みそで出た結論は、強そうな奴だったら今日は諦める、という世の中を舐め切ったように単純明快なものだった。
 オッサンはすぐに出てきた、手にも何も持っていない。まぁあの損壊を見たら買わないわな。トンボ眼鏡で中年太り、しわくちゃのスラックスでカツアゲならうってつけのカモだ。しかし今は事情が事情だ、面が割れるのも面白くない。携帯を出す素振りが無ければ、このままスルーする。
 俺らの目論見通り、オッサンはやや周りを気にしながらそそくさと立ち去っていった。傘も持ってないってことは近所だろう。噛むには旨みの少ないカモだ。
 ある意味気分転換になったところで、やはりエノモトが持ってきた短いバールで、この情けないヤマを仕上げることにした。フルスイングしても白いかすり傷がつくだけだったが、アイスピックと交互に根気よく叩いたら最後には中の商品が取り出せるほどの穴が空いた。エロは手強かった。
 時間にすれば小一時間ほどだったと思うが、心身共に疲弊した俺達は、お決まりの徘徊コースは取り止めて、成果の確認もおざなりに帰宅することにした。

 一週間ほどして、さながら放火魔の心理で現場を覗いてみると、自販機は綺麗さっぱり新品になっていた。まるであの夜のことは夢か幻か、跡形もなく。
 よくよく考えれば監視カメラの存在をすっかり忘れていたが、特に足がつくこともなかった。ひっそりと誰にも邪魔されることのない、ある種の聖域なのかもしれないと俺は思った。ちょっぴりバカな大人達がひた隠しにする理由が分かった気がした。そして小狡いガキが利用するというわけだ。
 仕入れたブツは多少足元を見られたが、状態の良さと美品であることから、当時の俺らにしちゃそこそこまとまった金になった。買い入れた先輩は自分が使ったあと、他の後輩に売りつけるのだろう。世界最古のビジネスが風俗だというのは、あながち嘘じゃないかもしれない。
 その金で俺はウリのエリナとしけこんだが、それはまた別の話。
 触れば壊れるエロティック。

In shoreline bed.

 修学旅行の夜を思い出してください。
 南国の波の音を聴きながら、そこそこのホテル、先生達も宴会を始める頃。
 僕達はアキラの「女子んとこ、行こーぜ」の一言で色めきだって、でも「全然興味なんてねーから、ただ、暇だし」って態度を完璧に演じながら部屋を抜け出しました。当時流行ったスパイのテレビゲームの真似事をしながら。
 大体が部屋割りなんてもの、生徒達に任せたら可愛い子ってのは一箇所に集まるものでしょう。僕達も即座にそこへ行きました。
 ノックして「入れてよ」の一言まで、僕も実に楽しい心地でした。まだ赤を知らなかったから。
 女子達は輪になって、常夜灯の灯りのみでトランプに興じているところでした。皆の目が心無しかギラついて微かな輪郭の中に浮かび、僕には舌をちらつかせる蛇のように見えました。この暗闇で一瞬のうちに、誰もが得体の知れない何かにすり変わってしまったかのようでした。
 僕はまずその輪には加わらず、ベランダの方に行きました。この部屋は位置がいい、エメラルドの海と白い砂浜、波打ち際が地平線まで続くのが見える。
 しばし腹の探り合いをする男女のヒソヒソ声を背に星を眺めていると、僕の隣にユカリが来ました。ユカリはお世辞にもスタイルや顔がいいとは言えませんでしたが、運動部の快活さと気配りの良さで女子グループの中心に必ずいる存在でした。
「こっちは星も綺麗だね、よく見える」
 とユカリは首筋に息がかかるほどの距離で囁きました。僕は目線を外しながら小さく頷きました。
 日頃から妙に突っかかってくる彼女の煩わしい態度に、その時漸く合点がいきました。その時まで僕は、てっきり彼女達は陰鬱で手足のひょろ長い、孤独な少年を面白がっているに過ぎないと思っていました。それはある部分では当たっていたのでしょうが、少なくともユカリにとっては少し違う面もあったようです。しかしその事に気付いた僕は、尚のこと憂鬱で後ろめたい気持ちに捕まりました。古くからの想い人に、すでに振られているにも関わらず未だ固執していたからです。
 こういったことは何度もありました。そして都度、僕は自分にその資格が無いことと、僅かな優越感を得る矮小な自分にほとほと嫌気が差して自暴自棄な態度で相手を傷つけるのが常でした。
「好きな人、いるの?」
 しばし間が空いて、二月にも関わらず生暖かい風が耳を撫でるとき、風と共にその質問は届きました。無垢で屈託のない、少女漫画のようにいたいけな心情に思えて、下腹を黒い炎で焼かれるような気持ちになりました。
 拒絶も順応も出来ない、愚かで臆病で孤立した山羊、草を食べることにすら罪悪感を感じるような……。
 そのときドアの側に居た誰かが「隠れて!」と矢のように言いました、皆は示し合わせたかのように柱に隠れ、トイレに隠れ、僕とユカリはベッドに潜り込んで布団を被りました。寝台は当然ながらシングルサイズで、二人共歳の割に図体の大きいものだから、一枚の布団に潜る為に殆ど抱き合うような形でした。
 突然の騒動に荒らげた息が無理矢理には収まる頃、粗野なノックがして扉が開きました。
 ユカリが僕の手をあまりに強く握るので、自分の手が汗ばんではいないか、などと悠長なことが頭をよぎりました。近くで見るユカリは存外に睫毛が長く、不安げに揺れる黒目がちな瞳と白い肌に赤身の差した頬は、随分と暗がりの中で可愛らしく思えました。
 懐中電灯が部屋を一通り観察して、小さく溜息が聞こえたあと扉は閉まりました。時間にすれば大したことはなかったはずですが、一晩中ユカリの吐息を聞かされたような心地でした。
 部屋の雰囲気が和らいでも、僕達は布団から出ませんでした。正確には僕だけが動くことが出来なかったのですが、ややもって今迄とは違う、日向に寝転ぶような健やかな感触が湧き上がってきました。何千回目かの吐息と、時折唾を飲み込む音と、くぐもった熱気と、感覚の失せていく手がそうさせたのかもしれません。
 この瞬間だけは、賑やかで健康で、何かにつけて慌てふためく、まるで自分とは反りの合わないこの厄介な存在を認めてやりたい、精一杯愛でてあげたい、そんな尊大で優しい情緒が溢れてきました。
 同時に、今余りにも強く結び付いたこの腕は、きっとこの布団を出たら他人になるという、強い予感も去来しました。
 周りが布団から出てこない僕達を怪訝に思い始める頃、僕は、僕が僕であるために欠かせない重要な何かを損なうような心情でベッドから抜け出しました。
 自分の部屋に戻る時、僕はキスすらしていないのに、喪失感でいっぱいでした。
 やはり自分には無理なんだ、誰しもに当たり前のことが、誰しもに与えられた幸せが、温もりが、無理なんだというおかしみが……。

 数年が経ち、故郷の花火大会で友達とスーパーの買出しに来ていた僕は、ばったりユカリと会いました。
 服飾科のある高校に行っただけあり、そこそこ垢抜けていました。化粧は怖いな、そんなことを真っ先に思いました。
 お互いの久々の挨拶も妙に空回り、それはお互いが核心に触れないよう慎重に、あまりに慎重で完璧なものだから空々しい、安いドラマのような態度がそうさせたのです。
 別れようかというところで、彼氏らしき男が親しげにユカリの肩を叩きました。
 ユカリは瞬間的に僕の顔を見て、「しまった」とでも言うかのような表情を浮かべました。
 僕はそれが妙に可笑しくて、予感通りあの夜からからかうことも目を合わせることも無くなった僕達の間に、当時の甘さのようなものがほんの僅かに蘇ったような気がしました。
 だから、じゃあねと気兼ねなく笑って手を振って別れました。

 あの夜僕はユカリに、ユカリではない誰かを見出していました。
 きっとあの布団の中は別世界に繋がる時空のトンネルで、それをくぐった僕は全くもって異質の、それでいてありのまま僕という別種の生き物になれたのです。
 それはユカリもきっと同じで、言ってしまえば身勝手で幼い利己的な願望を相手に重ねていただけに過ぎないのかもしれません。ですがそれは思い返すとこそばゆく、取り留めのない、小さい頃食べた飴玉のようなものでした。
 例えば僕や誰それの出来事ではなく、誰もが一度は通るトンネル、通り過ぎたトンネルの記憶。
 大人になると何度でも舐めた気になるアレはビー玉で、硝子の味に騙されているんだと、恐ろしくなってしまう。
 とても大切で、どこにでもありふれていて、簡単に壊れて、だからどうしても守らないといけない、かけがえの無い記憶。
 だからもしまた会うときは、波の音がする布団の中で。